サポートする人たち 令和2年2月

色々な立場からサポートする人たちを取材してみた。

人生の達人

安田秀雄さん
安田秀雄さん

 

1.   この職業を選んだ理由は?

小田原で履き物屋を営んでいた。(福島県出身) 

商店街の慰安旅行に参加をした時に踊りを観たのがきっかけだった。

元々、踊りが好きだった。どんなものかと始めた。

ご縁があっていろいろな方々に支えられて今に至った。

2.   本当にやろうと思った年齢は?

40代までは子育てに徹していた為50代から始めた。

踊りを本当にやろうと思ったのは50代後半から。

70歳まで小田原で商売をしていた。

その後、踊りの先生が次々に亡くなられた。

皆様にも辞めないでくださいと言って頂き、有難い事だと思った。

執念でやり続けた。

3.   やりにくかった事はないか?

皆様に支持された為、特になかった。

4.   この踊りは男子でなければ駄目なのか?

女性にもぜひ参加してほしい。

女性の踊りは男子には無い色気がある。

女性にも「男踊り」をやって頂きたい。

5.   今後の夢、目標は?

踊りに取り組みたい方がいたら教えたい。

6.   次世代の人たちに言いたい事、残したい事は?

日本の文化を小さい子どもたちに教えたい。

行儀を教えたい。

扇子の畳み方から教えていきたい。

 

安田先生のインタビューを終えて!

 

昭和3年生まれ、現在91歳という年齢にただただ驚愕しました。背筋が伸び凛とされているお姿は年齢を感じさせませんでした。スリムなお身体からは長年踊りを続けてこられたプライドを感じました。踊りを始める方が年々減っている事に触れて、以前のように活性化された時がくればよいですとの事でした。又、踊りを始められたのが50代後半からと聞き、何かを始めるのに遅過ぎる事はないのだと現在50代半ばの私は勇気を頂きました。

今でも月に4回ほど踊りの勉強に東京まで通われていらっしゃるそうです。

インタビュー前、私たちの為に椅子を運んでくださりそのお気遣いに恐縮しました。

今回、安田先生にお会い出来た事は「私の宝物!」となりました。

 

どうかいつまでもお元気に活躍されますように!!!

挑戦

花柳琴臣さん
花柳琴臣さん

Q1この職業を選んだ理由は?

 

日本舞踊家をめざしたのは

もともと日本舞踊家の家ではなかった。親は料理屋をやっていた。

母親が習い事で踊りをならっていて。それを自然に見に行くようになって、物心ついた、34歳から踊りが環境の中にあった。

10歳の時から踊り始めた。日本舞踊家の職業に就こうとは思っていなかった。親にも反対されて一度はやめようと思った。

でも歌舞伎が好きであったり、ミュージカルの舞台に興味がわいて高校卒業して20歳ぐらいのとき舞踊家を目指したいと思った。

 

Q2女性ばかりの中でやりにくかったことはないか?

 

今もやりにくい。でも日本舞踊家の中の男性日本舞踊家というのは希少価値がある。

仕事としては価値としては高いのではないか。女性と仕事をするのに抵抗はない。

 

Q3この踊りは男子でなければ駄目なのか?

 

日本舞踊家の世界の感覚でいくと一番近い世界が歌舞伎。

もともと大歌舞伎は男性かりの歴史がある、それが特徴。

女性が歌舞伎をやっていいじゃないかと探れば探るほど大歌舞伎はそれが特徴でやっている。歌舞伎には女性も出る。

日本の伝統芸能を発信するコンセプトのNPO等では女性も出る。

これからはどんどん女性も一緒に歌舞伎を楽しめますよという情報を発信したい。

 

Q4今後の夢や目標

 

中学高校からの日本舞踊のこんな舞台に立ちたいという夢は大体かなった。

学校に行って日本の芸能とか子どもたちに日本の良さを伝えたいという夢目標があって継続してかなえ続けている。

お辞儀の大切さなど。子どもに伝えることによってその子供たちがその次の世代に伝える人間になってほしい。

 

Q5次世代の人たちに言いたい事、残したい言葉は?

 

日本の良さを伝え続けていってほしい。自分の心魂を伝えたい。

日本舞踊の良さとか歌舞伎や伝統芸能の良さとかを伝えたいと最初は思っていた。「それだけじゃないな」とある時から気づいた。お辞儀をすることの大切さとか、日本の芸能を伝えるだけではない日本独特の精神性を含めてなど。

寺や神社で舞うこと日本舞踊家は元々神様や仏様や自然に奉納するという役割がある。そういうところで舞う大切さとか、神社仏閣に足を運ぶことの大切さをを伝えたい。

日本舞踊のお稽古をすれば近道。そういったことを広げていきたい。

今、日本の良さが見直されている。子どもだけではなく大人も含めて日本はいいねとシンプルにもっともっと伝えていきたい。

 

Q6 バリアフリーを目指して、何か考えることはありますか?

 

自分自身は踊りで表現するということが最大のツールとして生きてきている。

なぜ踊りをやっているのかというと一歩踏み出せないのがつらい苦しいという人が一歩踏み出してみようとかというように、琴臣さんの踊りを見ている10分間つらさ苦しさを忘れていたな、という踊りを踊っていきたいなと思っている。言葉はかけられないとは思うが何か感動するとか一歩前に踏み出してみようとか思える踊りをやっていきたい。

22歳の時悪性腫瘍、つまりガンにかかって 入院し、危ない状況もあったが、治療をして調子が良くなっても病院から出てはいけないといわれていた。閉じ込められているような感覚があった。

その時、病院で慰問、ロビーコンサートのようなものでつらさを忘れる時間もあった。パフォーマンスから希望をもらって明日も頑張って治療をしようと思えた。治った後はバリアを感じている人が希望をもらえるように、今は出張して踊りをお見せすることもある。それをライフワークとしている。

そういうことが芸術の力だと思っている。つらい思いをしている方でも踊りを見ている時はつらいことを忘れて前向きに生きていってほしい。

 

自分で劇場に行けないとか高齢で施設にいてお出かけがしづらいという方も沢山いる。エンターテイメント、芸術家として、出張で行ってお見せするのが僕のライフワークとしてやらせていただいていて、そういうチャンスを一歩踏み出すきっかけにできたら嬉しい、それが芸術の力だと思う。衣食住に必要のない芸術を選んでいるが、何か芸術を自分の生活に取り入れてそこから前向きに進んでいって頂けたら嬉しい。

全ての人に街歩きの可能性を

初鹿真樹さん
初鹿真樹さん

神奈川県西地区リハビリテーション連絡協議会(以下、県西リハ)

作業療法士 初鹿真樹(はつしか まさき)さん

 

小田原に7年前に移住。

県西リハでは「リハビリフェスタ」というリハビリのお祭りを年に1回開催しており20203月で7回目となる。

「小田原のバリアフリーマップを(リハビリフェスタの企画として)作らないか」と提案されたのがきっかけだった。

我々が地域の障がい者の方に何ができるかと考え、障がい者が外出できる機会を増やすというのがねらいだ。

バリアフリーマップを作るための調査会、通称「街歩きイベント」は一日かけてするイベント。

参加者が3040人、4,5名のグループに分け、グループ一つにつき一台の車いすを貸与。車いす体験をしていく。

2018年からWheeLog!(※)と連携し小田原のバリアフリーマップ作りを始めた。

今では初鹿さんはWheeLog!の運営メンバーでもある。

WheeLog!とコラボした街歩きイベントは20184月より開始し、現在も継続中、年に二回の街歩きイベント開催を目標としている。

 

今後の課題

街歩きイベントへの地元車いすユーザーの参加がまだまだ少ない。今後、増えてほしい。

WheeLog!と連携した小田原のバリアフリーマップは紙媒体のもので、ネットやスマホを使えない人のために作った。

自立してやっていく資金(寄付金)やパンフレット作成するための寄付金などを集めていきたい。

街なかで車いす体験をすることによってお店側にも車いすに優しい環境を考えて欲しいし、そうすることによって車椅子ユーザーがいけるお店が増えていくことを願っている。

 

WheeLog!とは

20175月にリリースされた、一般社団法人WheeLogが運営しているバリアフリーマップのスマートフォンアプリ。

 

難病や事故など様々な理由で車いす生活になります。車いすだと思うように動けず、消極的になってしまうこともあります。その状況を少しでも変えたいです。そして、WheeLog!を通して「車いすでもあきらめない世界」をみんなでつくりたいです。何が起こったとしても自分の持っている力を発揮し生き抜ける社会に!

WheeLog! ホームページよりhttps://www.wheelog.com/hp/


 

 

生きがい

工藤澄子さん
工藤澄子さん

1.「NPO法人 サポートKAZE」ってどんな団体?

 

「サポートKAZE」は、障がい者の生きがいや社会参加を応援する団体です。

14年目になりますが、設立当時は難病に対するサービスが十分ではなかった頃でした。

治療法が確立しておらず、ケアのあり方も一人ひとりの状況や希望に合わせ模索しながらという状況でした。私が看護師として勤めていた国立箱根病院(現NHO箱根病院)では、医師、看護師、心理士、言語聴覚士、作業療法士などで勉強会「QOLを考える会」をしていました。

 その頃は、旅行に行きたい、映画を見に行きたい、展覧会に行きたいなどの夢を実現するには、自分のお金で、ボランティアを頼んで行くしかない状況でした。実習の学生や職員がボランティアをしていました。

 絵を描くことや、旅行や外出を楽しみ、チャレンジする、自分が自分らしくやりたいことができる、そういう方たちは重い障がいがあっても、「生き生きしているな」と感じていました。

 サポートKAZEは「QOLを考える会」のお仲間と、医療職の知識や経験を生かし、病院や在宅で療養している方々の夢や生きがいを応援したいという思いから生まれました。

在宅サポート、外出サポートなどを行いました。当時はまだ介護保険等の制度がありませんでした。難病の方々の生活は、福祉の狭間ともいわれ、経済的な負担も大きかったので、無償でのインフォーマルなサポートをしていました。

また、「ケアとは何か」「障がい者のQOLとは」といった研修会を実施し、小田原市市民活動応援補助金を受けて「神経難病等のケアに関する普及啓発事業」を実施し、報告集「神経難病支援~QOL維持・向上をめざして」を発刊しました。

 

2.バリアフリー交流事業のはじまり

 

個別的なサポートをしていく中で、人は誰もが、社会の一員として共に暮らし、認められる存在でありたいという願いがあると感じました。

当時は医療的なケアが必要な障がい者が通える施設はなかなかありませんでした。

そこで、考えました。障がい者の居場所であり、活動の場所でもあり、そこには障がいのない元気な人々も来る場所をつくりたい。そこは、支援を受ける側と支援をする側といった区別のない、日常の人と人のお付き合いの場所としたい。

 そのためには場所と設備が必要です。バリアフリーマンションの一室(風祭パノラマハイツ305号室)を借り、重度の人も参加出来るようにしたいので吸引器や酸素吸入、コミュニケーションが十分とれない人向けにICT(※)機器や文字盤などの準備もしました。

神奈川県の基金21・ボランタリー活動補助金を受け、財政的なバックアップをしていただいたことが大きな力となりました。

情報・通信に関する技術の総称。従来から使われている「ITInformation Technology)」に代わる言葉として使われている。海外では、ITよりICTのほうが一般的である。(コトバンクより)障がい者がパソコンなどを使ってコミュニケーションをとること。

 

障がいのある方々と共に、さまざまな人々が参加して下さいました。介護や支援にたずさわる人々も居れば、さまざまな趣味活動の達人、知識豊富な学者や研究者も居ました。

コーヒータイムの日ができ、とにかくおしゃべりをする・・からはじまり、誰かが「やりたい!チャレンジしてみたい!」ということを、交流プログラムにしていきました。

絵画の会、歌の会、手芸の会、パソコン教室、映画を観る会、カウンセリング教室などさまざまのプログラムが生まれました。

 共に時間を共有することで、互いを理解しあい、支え合う関係が自然な流れの中で生まれたと思います。

 

 

3.障がいのある方々とつながる

 

こうして交流事業を実践し、成果を感じ取っていましたので、在宅療養をしているもっと多くの方々に呼びかけ参加してほしいと思いました。私たちが新たな障がい者さんと出会うチャンスは、なかなかないのです。病院などのようにただ待っているだけでは、出会えない。

そうした課題を抱えながら、小田原市市民提案型協働事業に応募し、障がい福祉課と連携して、「バリアフリー交流事業」をすすめてきました。

協働事業とはいえ、民間法人の活動を、行政から個々の障がい者に対し伝えるということは、なかなかむずかしいところでした。パンフレットを窓口に置いていただいたり、該当するご相談があったときに、紹介していただいたりしました。

それで、「地域交流イベント」・・夏祭り、バス旅行など季節ごとのイベント開催や、「ふれあいきゃらばん」と称して、小田原市内の公共施設に参加者の皆さんと共に出かけ、新たな出会いを求めていきました。

 そうした中で「サポートKAZE」の活動を多くの方々に知って頂き、行政の窓口や支援センター、介護事業所などからのご紹介で、多くの方々と出会いました。それを機に、交流プログラムに参加された方々も多くいらっしゃいます。また、コミュニケーション機器導入のお手伝いやパソコン環境のお手伝いで、お家へ訪問することも多くありました。一人で出かけてくるのは難しく、送迎の依頼にもできるだけ対応してきました。

また、中には就労支援がしてほしいとか、働く場所を一緒に探してほしいとか、これまでの私たちには得意ではない分野のご相談もありました。

他の機関を紹介したり、ご希望に添えなかったりする場合も多々ありました。

どういう形であっても接点を持ち続け、一緒に考えていきたいと思っています。

 

とりあえず今は健常な私ですが、この活動を通して、多くの方々と出会い、障がいのある方々と一緒にサポートKAZEを運営してきました。人と出会い、つながる喜びを感じています。

 

4.私ごとですが

 

学生時代は東京で、結婚を機に縁あって小田原人になりました。

当初、東京と比べ夜は早くに店が閉まって、さびしい街に来てしまったと思っていました。

公務員勤めで、転勤などもあってほとんど地元のことは知らずお付き合いも希薄でした。

ただ私は趣味で油絵を描いていました。赤岩画伯の教室に通っていたこともありましたが、その先生が箱根病院で絵の指導をされていたのです。そのご縁で、在職中ボランティアをさせていただいていました。手の不自由な方の、絵具を出したり絵筆洗ったりというお手伝いを通じて、その人となりに触れて、たくさんのことを学びました。

 ちょっとそこにあるものを取りたい!ハエがきても蚊がきても自分では追い払えない!ナースコールで呼ばなければならない!

人の手助けがなければ、24時間安心できない!生きがいも見つけられない!障がいゆえの不自由さとどう向かい合えば良いのか、当時は、看護職の仲間の中でも、意見が分かれることもありました。でもそれがその人達にとって一番必要なことであり、手となり足となる支えは誰がする、どの専門職がするというのではなく、共に生きる仲間として当然のことだと確信しました。

この時感じたことが、その後の私の歩む道を拓きました。

定年退職を機に、サポートKAZEが私の職場になった所以です。

 

 

5.どうぞ気軽にご参加ください

 

一緒にチャレンジしませんか!と呼びかけていますが、どうやらやりたいからやろうと思うまでにはいろいろ段階があって、その場所に「行く」には決断が必要なのかもしれません。

何かをしなくちゃいけない場面が設定されていると、パソコンしなきゃいけない、絵を描かなきゃいけないとなります。実際にそれがうまく出来ないことが苦痛だと話される方もいます。お茶だけ飲みに来てもいいし、おしゃべりしててもいいとお伝えしていますが、そうもいかないという方もいます。

でも、そこに一緒にいれば、共に過ごせば、お互いが見えてきます。誰かが誰かに元気や勇気を与える存在になるかもしれないのです。一人ではその体験は味わえないかもしれません。どうぞお気軽においでください。

 

 

6.バリアフリーネットワークおだわら

 

 2018年6月にサポートKAZEの呼びかけで、発足しました。

街ぐるみ、あらゆる場所で、バリアフリーが実現することをめざしています。

施設や交通のバリアフリーのみならず、市民一人ひとりが他者への思いをもち、あたたかい手がつながることを期待しています。